高井義喜久とスリコフの名画
プロローグこの度、ワシーリイ・イワーノヴィチ・スリコフの油彩画「女子修道院を訪れる王女」の習作(60号=92×132.5?、1912年)が函館在住の高井義喜久氏(1873年〜1944年)の遺族から北海道立函館美術館に寄贈された。「北海道新聞」(以下、「道新」)によれば、スリコフの作品は国内にはこの一点のみで、評価額は1億円という(2003年7月8日付け)。この作品の完成作(120号=114×202?、1912年)は、モスクワのトレチャコフ美術館にあるが、私は1993年春に東京都美術館で開かれた「ロシア近代絵画の至宝〜トレチャコフ美術館展〜」という展覧会でそれを目にする機会を得た。そして、遅ればせながら、その時初めて、当時市立函館博物館に寄託されていた油彩画が、トレチャコフにある絵の習作だということを知ったのである。この機会に、高井義喜久氏(以下、敬称略)について、またこの作品がたどった経緯について紹介したいと思う。
高井義喜久とロシア正教
高井義喜久は、1873年5月11日に元松代藩士高井栄司の長男として長野県で生まれた。すぐ下に1歳違いの弟万亀尾がいる。明治の初期、ニコライ神父が松代を巡教した時に高井一家は洗礼を受けたという(高井家にある「履歴書」、私家版「高井万亀尾神父略伝」=以下、「略伝」)。「履歴書」には、1886年、松代の小学校を卒業した義喜久は上京して、神田の正教神学校(日本ハリストス正教会附属男子神学校)に入学したとある。「略伝」には、万亀尾の小学校卒業と同時にニコライ師の招きで、兄アファナーシイ義喜久及び従兄弟の長野敏夫と3人で上京し、神学校に入学したと記されているが、ともあれ、高井兄弟と従兄弟はこうして故郷を離れたわけである。
弟の万亀尾は、神学校を卒業して伝教者となり、1905年4月16日に東京の輔祭に叙聖された。翌年、ニコライの命で熊本のロシア人捕虜収容所に派遣されたあと、長崎の司祭として赴任した。第二次世界大戦後は長崎から東京に来て、1954年にポドヴォーリエを立ち上げ、神品としての人生を全うした(『宣教師ニコライの日記抄』、「略伝」)。
一方、兄、義喜久のほうは、1893年に神学校の全科を卒業し、4年間伝道事業に従事したものの、続いて述べるようにその後は新たな道を選んでいる。
なお、義喜久の妻利可は、初期の正教信徒の一人で宣教団本会書記だった沼辺愛之輔の娘であり、彼女の妹は、「尼港事件」で犠牲となった石田虎松副領事の妻うらきである。
サハリン島で
1897年、高井は当時ロシア領だったサハリン島に赴き、コルサコフにある「薩哈嗹島漁業組合」事務所の職員(ロシア語通訳)となった。樺太定置漁業水産組合編『樺太と漁業』という本から当時の彼の働きぶりを紹介する。
組合にはロシア語通訳が4名以上置かれ、その仕事は「組合に関する露国人との交渉事務に当り、専ら哥港(コルサコフ港)に於ける出漁検査の際これが手続及代弁事務等をなし尚総代評議員の補助機関として事務を執る関係上組合事務員を兼ね…」とあるように、単に机上の事務処理ではない極めて実際的な仕事であった。高井はここで7年間働き、事務所長にまでなった。その様子は「…流暢なる露語を以て州長官、陸軍屯営隊長其他の官吏と親密なる交際をなした為、爾後諸事極めて円滑に取り 運…」と書かれている。すなわち、高井の民間外交によって、組合員(漁業者)は円滑に仕事ができるようになったというわけである。
その活躍の最たる例が日露戦争勃発の時である。1904年2月10日の開戦時、あいにくコルサコフの野村基信領事は上京して不在であり、どうやって島にいる居留民と漁場越年者(冬期間の漁場の番人)の引揚げを図るかが憂慮された。その危機を救ったのは、まさにこれまでの高井の働きによって生まれたロシア官憲との間の信頼関係であった。コルサコフ州長官は「日本人惣代」となった高井に大いなる配慮を示し、さらに「特別優待許可書」を交付したので、高井は島内の各漁場を巡り、越年者をコルサコフ港に集合させることができたのである。日本政府は早速、イギリスの汽船「エトリックデール号」を用船して函館に廻航させ、ここで外務省や漁業組合の関係者数人を乗せ、5月2日に出港させた。船は2日後にコルサコフに到着、漁場越年者、その他居留民とアレクサンドロフスクからたどり着いた日本人等総計350人ほどを収容し、全く無事に函館に帰ることができたのである。知られざる歴史の一幕といえるのではないだろうか。
1931年のモスクワ出張−スリコフの絵との出会い
日露戦争に勝利した日本は、ロシアと漁業条約を締結し、ロシア極東沿岸水域での漁業権を得た。高井は自らロシア領のサハリン島北部で漁場経営に従事するとともに、1907年に創立された露領沿海州水産組合(後の露領水産組合)の副組長となって、対ロ漁業交渉のためにペテルブルグやウラジオストクにも赴いた。しかし1913年に組合の会計問題で辞任し、大阪において、日ロ間の貿易仲介業を始めるが、結局はロシア革命の影響を受けて10年ほどで廃業した(「履歴書」、大正2年露領水産組合『業務成績報告』)。人生の中で最も不遇な時代であったように思われる。
1929年、高井は日魯漁業(株)に入社した。当時の日魯は、北洋漁業の最大手であり、以降もソ連に対抗するため同業社との合併をすすめて独占化をはかり、第二次世界大戦が始まる頃にはまさに国策会社になっていた。高井は毎年函館から出港する日魯の「本部船」(幹部が乗船して指揮をとる)に乗ってカムチャツカを仕事場とした。そして、1931年8月から翌年5月まで、露領水産組合の代表田中丸友厚とともに、日ソ漁業交渉のため、モスクワに滞在するのである。その折、1932年3月にモスクワの国営美術作品販売所で見つけて購入したのがこの作品であった。さらにその際、スリコフの娘を訪ね、彼女の夫である画家ミハイル・ペトローヴィチ・ゴンチャロフスキイに自身の肖像画を描いてもらっている(『ハコビ ニュース』8号、2003.08-11、この度同時に函館美術館に寄贈された)。
こうして函館に将来された絵であったが、その真価を見極めた人物が存在したことも幸運であった。その人物は函館を故郷とする画家木村捷司である。1940年、彼の奔走によって、この絵は『アトリエ』という美術雑誌にカラーで紹介され、日本の画壇に知られるようになった(1956年4月10日付け「道新」)。
あやうくソ連へ
その後、この絵は日魯に寄託されて東京本社の社長室に飾られた。そして高井自身は、1944年7月19日に函館の自宅で息を引き取ったのである。享年71歳であった。絵はそのまま社長室にあったが、それが再び話題になったのは、1956年のことである。たまたまユネスコの会議に出席するために来日していたソ連の文化省次官が、この絵の噂を耳にしたところから話は始まる。彼は美術研究家で、中でもスリコフの研究に力を注いでいたという。早速日魯本社を訪ねてこの絵に対面した時、「長い間探していたもので、日本を訪れた最大の収穫だった」と語ったそうである。その感激ぶりを目にした平塚常次郎社長は、当時、日ソ間の漁業交渉が厳しい局面にあったこともあり、親善のためにとこの絵の贈呈を申し出た(1956年4月4日付け「道新」)。高井家からの寄託の経緯はすっかりわからなくなっていたのだろう。結局、このことをきっかけに、絵はソ連へは行かずに函館の高井家のもとに返却され、その後、1966年からずっと市立函館博物館に寄託されていたのである。
エピローグ−終の棲家へ
1998年、この「女子修道院を訪れる王女」はロシアの展覧会に出品されることになり、博物館の寄託をといて65年ぶりの里帰りを果たした。かの文化省次官が存命であったかどうかはわからないが、もしこの展覧会を見たならば、さぞかし感慨深いことであっただろう。
ロシアでのお披露目を終えて日本にもどったこの絵は、冒頭に述べたように、函館美術館が終の棲家となった。函館の市民の一人として、この名画を当地に将来され、寄贈された高井家の皆様に感謝を捧げたい。
*本稿の執筆にあたり、北海道立函館美術館学芸課長佐藤幸宏氏のご協力を得ました。ここに記してお礼を申し上げます。